クリーン・シティ、シンガポール。道端にゴミ一つ落ちていないこの国で、今、見えない場所から深刻な煙が立ち上っています。それは、かつてのような単なるニコチン依存の問題を超え、生命を直接的に脅かす「薬物汚染」の入り口となりつつあります。
今回は、国内メディアでも連日警鐘が鳴らされている電子タバコ(Vape)問題、とりわけ最近確認されている「エトミデート」などの危険薬物が混入された新型リキッドの実態について、深く切り込んでいきたいと思います。
単なる「喫煙」ではない。麻酔薬を吸わされる若者たち
これまで電子タバコといえば、高濃度のニコチンによる依存性が主な論点でした。しかし、ここ数ヶ月でシンガポール国内の状況は一変しました。中央麻薬取締局(CNB)や健康科学庁(HSA)が相次いで警告を発しているのが、電子タバコのリキッドに違法に混入される「エトミデート」の存在です。
エトミデートとは、本来は手術時の全身麻酔導入薬として使われる医療用医薬品です。これを吸引可能なリキッド状に加工し、「スペース・エイプ」や「マジック・マッシュルーム」といったキャッチーな隠語で、若者の間で密売されているのです。
これの何が恐ろしいかと言えば、使用者が「ただの電子タバコだと思って吸っている」ケースが多々あることです。
エトミデートを吸引すると、中枢神経が抑制され、まるで「ゾンビ」のような状態に陥ります。具体的には、手足の激しい震え、意識の混濁、そして突然倒れ込むといった症状です。シンガポールのSNS上でも、ショッピングモールのベンチや路地裏で、若者が不自然に硬直したり、痙攣したりしている動画が出回ることがありますが、これらは単なる泥酔ではなく、エトミデート含有の電子タバコによる急性中毒である疑いが濃厚です。
さらに、エトミデートは体内でのコルチゾール生成を阻害するため、長期使用は副腎不全を引き起こし、最悪の場合は死に至る危険性すらあります。これが、今のシンガポールで「タバコ」という皮を被って流通しているのです。
タイムリーな規制強化:エトミデートは「麻薬」と同じ扱いへ
電子タバコによるエトミデートの乱用が急増し、重篤な健康被害が確認されたことを受け、シンガポール政府は非常に迅速かつ厳格な対応を取りました。
🔹 規制強化は2025年9月1日から
エトミデートは、以前は「毒薬法(Poisons Act)」に基づき規制されていましたが、罰則が比較的軽かったため、乱用を食い止めるには不十分でした。
この状況に対し、保健省は2025年8月下旬に法改正を発表し、2025年9月1日から、エトミデートを「薬物乱用法(Misuse of Drugs Act:MDA)」のクラスC薬物として一時的に指定し、規制を大幅に厳格化しました。
これは、エトミデートを、大麻やコカインなどのハードドラッグや麻薬と同様の厳しい法的枠組みで扱うことを意味します。
🔹 罰則の劇的な引き上げ
この法改正により、エトミデートに関連する罰則は劇的に引き上げられました。
- 所持・使用: 最高10年の禁錮刑および2万シンガポールドル(S$)の罰金。
- 密売・供給: 懲役刑に加え、最高15回の鞭打ち刑が科される可能性があり、これは従来の「毒薬法」では適用されなかった極めて重い刑罰です。
政府は「問題が深刻化する前に先手を打つ」という強い姿勢を示しており、エトミデートを含む違法な電子タバコ製品の供給を、他人の不幸で利益を得る「冷酷な犯罪」として断罪する方針を鮮明にしています。
この最新の規制強化は、シンガポールが電子タバコを単なる喫煙代替品ではなく、「若者を狙った薬物犯罪」として対処するという、ゼロトレランス(不寛容)の決意を示しています。この最近の動きこそが、この問題がいかに緊急で深刻であるかを物語っているのです。
国内で実際に起きている「事件」と摘発の現場
シンガポール当局は摘発の頻度と強度を高めています。報道されている具体的な事例や傾向を見てみましょう。
まず、未成年者が運び屋として利用されるケースです。先日も、中学生や高校生が小遣い稼ぎ感覚でテレグラム(秘匿性の高いメッセージアプリ)を通じて売買に関与し、学校内や公共の場で補導される事案が発生しています。彼らは自分が運んでいるものが、将来を破壊する薬物であるという認識が希薄なまま、犯罪の片棒を担がされています。
また、大規模な摘発作戦も展開されています。ある事例では、ジョホールバルからの密輸ルートが特定され、数千個単位の電子タバコ関連製品が押収されましたが、その中には成分不明の怪しげなリキッドが大量に含まれていました。当局の分析の結果、そこからエトミデートや、大麻成分であるTHC(テトラヒドロカンナビノール)が検出されることも珍しくありません。
最近では、公営住宅(HDB)の一室が密造工場や保管倉庫として使われ、近隣住民の通報によって警察が踏み込むという事件もありました。私たちの生活圏のすぐ隣で、こうした違法行為が行われているのが現実です。
在住日本人として、この危機をどう見るか
シンガポールに暮らす日本人として、私はこの問題を非常に深刻に受け止めています。
日本人の多くは、「シンガポールは法律が厳しく、治安が良いから安全だ」という神話を信じています。確かに街は安全ですが、その厳格なルールの裏側で、若者を狙う闇のマーケットは巧妙化しています。
特に懸念されるのは、インターナショナルスクールや日本人学校に通う私たちの子どもたちへの影響です。言葉の壁や文化の違いがあっても、SNSを通じた誘惑に国境はありません。「勉強のストレスが解消される」「ただの蒸気だから安全」といった甘い言葉で、正体不明の「毒」を手渡されるリスクは、日本にいる時以上に高いかもしれません。なぜなら、ここでは電子タバコ自体が完全に違法であり、手を出した時点ですべてがアングラな取引となるため、品質の保証など最初から存在しないからです。
また、大人の社会においても注意が必要です。日本から来たばかりの駐在員や旅行者が、安易に「アイコスと同じようなものだろう」と考えて手を出すことは、法的リスクだけでなく、健康面でも致命的なリスクを負うことになります。その一本のリキッドに何が入っているか、売人ですら知らない可能性があるのです。
結論:無知こそが最大の敵である
最後に申し上げたいのは、私たちは「電子タバコ=ファッション感覚の喫煙具」という古い認識を捨てなければならない、ということです。
シンガポールにおいて、現在の電子タバコは「正体不明の化学物質吸引器」と呼ぶべき危険な代物に変貌しています。エトミデートのような麻酔薬が混入されている事例は、もはや対岸の火事ではありません。
この国で暮らす私たちは、法律を守ることはもちろんですが、それ以上に「自分と家族の命を守る」ために、この問題に対して正しい知識と強い警戒心を持つ必要があります。面白半分で手を出したが最後、そこには笑い話では済まされない、取り返しのつかない結末が待っています。
以上、編集長マイのつぶやきでした。
